世界(一部)
_1-1-643x1024.jpg)










photo: Shunta Inaguchi
ー
「世界(一部)」
本展は、「ポストアーティスト」と呼ばれる人間ではないアーティストによる作品を集めた展示です。
ここでいう「ポストアーティスト」とは、従来の「人間=作者」という前提を超え、色彩や自然、形、食料など、人間以外の存在がアーティストとして立ち現れる試みを指し示しています。
本展では、そうしたポストアーティストによって構成される作品群を展示し、この世界のありようを再解釈し、それらの間にある響き合いの関係性を浮かび上がらせようとしているのです。
そのことによって、「世界(一部)」というタイトルが示すように、私たちは、私たちの世界自体のくみ尽くせなさを理解しながら、世界そのものが表現している何かを可視化させようと試みています。ぐら(本展キュレーター)
じにゃん
自然物。アーティスト。自然の産物それ自体がアーティストである存在。様々な自然界の事物は人間の時間や空間のスケールを超えて出来上がっている。また、人工物も元を辿れば全て自然との代謝によって出来上がっている。じにゃんとは、にんじゃの意味のないアナグラムである。
ラレクスヘ
形。アーティスト。様々な物体や記号などありとあらゆるものとして存在している。また、文化、政治、言語、心理など社会的なものとも密接に関係を持っている。ラレクスへとは、ヘラクレスの意味のないアナグラムである。
ラネプ
色彩。アーティスト。人間にとっては可視光線の波長の中に存在している。芸術作品や日常生活、そして記憶や想像の中に存在している。また、文化、政治、言語、心理など社会的なものとも密接に関係を持っている。
じゃじゃ
食料。アーティスト。人類が食べることができる素材、もしくはそれらによる調理品(料理)。じゃじゃは、人類の文化の中でも重要な役割を担ってきた。
ぐら(キュレーション)
キュレーション。アーティストキュレーター。作品や情報を選び、組み合わせ、意味をもたせて提示する行為一般。美術館では主に展示企画のことを指し、ネットや日常では情報やモノを編集・整理して共有することも含む。
ー
「世界(一部)」
作家:じにゃん、ラレクスへ、ラネプ、じゃじゃ
キュレーション:ぐら
会期:2025年10月11日(土)〜10月19日(日)13:00〜18:00
会場:O CHA NO MA
〒962-0845 福島県須賀川市中町17-8 2階
ー
『世界分析者のための(もうひとつの)道具箱 ――「世界(一部)」に寄せて』平岡希望
「『子を産むという石だ、こいつは!』と彼は叫んだ。『今でも大へんな数だが、まだまだ増えるぞ。形は満ちているときの月の形で、色は夢でしか見ることのできないあの青い色を帯びるんだ。わしの親のそのまた親が小石の力の話をしていたが、あれは嘘ではなかった。』」
(ホルヘ・ルイス・ボルヘス 作, 内田兆史, 鼓直 訳「青い虎」『シェイクスピアの記憶』岩波文庫, p.42)
…12、13、14、15個。逆から数えなおしても15個。細く開かれた窓から、微風とともに差しこむ日光を浴びた手のひら大のそれらはどうやら “子を産む石” ではないらしく、「この石、靴みたい。」と来場者の一人が指したそれは、
「そこでわし、奥さんの使いにきたんだがね、奥さんの言われるにゃ ――『おまえ、旦那が革を置いて長靴を注文して来なすった靴屋へ行って、こう言っておくれ ―― 長靴はもういらないから、そのかわりにあの革で、死人にはかせるスリッパを大急ぎでつくっておくれ。そしてできるあいだ待っていて、それを持って帰っておくれ』ってな。それでやって来たのさ。」
(レフ・トルストイ 作, 中村白葉 訳「人はなんで生きるか」『トルストイ民話集 人はなんで生きるか 他四篇』岩波文庫, p.35)
たしかにV字の切れ込みと細長い形が “革のスリッパ” のようだ。コンクリート打ちっぱなしの床には、同じように十数個ずつ石を載せた木製パネルがあと3枚点在していて、「自然の産物それ自体がアーティスト」に擬せられた【じにゃん】の作品でありつつ、石の1個1個が【じにゃん】の現れでもあるのだろう。
「本展は、『ポストアーティスト』と呼ばれる人間ではないアーティストによる作品を集めた展示です。
ここでいう『ポストアーティスト』とは、従来の『人間=作者』という前提を超え、色彩や自然、形、食料など、人間以外の存在がアーティストとして立ち現れる試みを指し示しています。」
と、キュレーターの【ぐら】は語るが、そんな “彼” もまた「キュレーション。アーティストキュレーター。作品や情報を選び、組み合わせ、意味をもたせて提示する行為一般」であるから “ポストアーティスト(キュレーター)” だ。
そして、窓辺にお店を広げるように置かれた、100個を超えるとおぼしき缶詰は定番の「カンパン」から変わり種の「たこ飯」までバラエティ豊かに取り揃えられているが、これは「食料。アーティスト。人類が食べることができる素材、もしくはそれらによる調理品(料理)」の【じゃじゃ】で、隣に立て掛けられているのは【ラネプ】なのだろう。「色彩。アーティスト。人間にとっては可視光線の波長の中に存在している」 “彼” の作品(であり存在そのもの)は、スプレーで一面単色に塗装されたパネルで、おそらく【じにゃん】のパネルと同型のものだ。目の前の、窓際に立て掛けられたものは水色、そこから時計回りにぐるりと見れば黄、紫、赤、黄緑、オレンジ、ミントグリーン、赤紫、赤橙のパネルが配されており、その表面には時に稲妻や、
「立っているものは何もなかった。ただ水が淀み、海が安らかに静まりかえっていた。生を享けたものは何もなかった。」
(A・レシーノス 原訳, 林屋永吉 訳『マヤ神話 ポポル・ヴフ』中公文庫, p.86)
静まりかえった水面を連想させる色ムラがあって、そういえば Cream Soda Museum の【ラネプ】ページ[注1]には映像作品もあった(今回は展示されていなかったが)。
1分ほどの尺、そして《ラ》《ハ》《ピ》…というナンセンスかつ記号的なタイトルで統一されたそれらでは、単色、あるいは丸や四角といった図形を伴う画面の色が刻々と変化していくのだが、濃淡を成すパネルはその一瞬を、変化のうごめきまで含めて切り取ったみたいだ。【ラネプ】に伴走するかのごとく、展示空間にはQRコードも7枚貼り散らされており、水色の【ラネプ】の傍らに貼られたそれを試しに読み込む。
スマホの画面に現れた、貝のような、ドラえもんのポケットのような図形もやはり水色だ。そして、それが真赤な背景に浮かんでいるところまでは【ラネプ】と同じなのだが、水色の面はアメーバのごとく変形し、反転し、捻転していく。この映像は「形。アーティスト。様々な物体や記号などありとあらゆるものとして存在している」とされる【ラレクスヘ】のものだが、再び【じゃじゃ】を、都市のジオラマみたいに並んだ(そういえばここ須賀川は “特撮の街” だ)缶詰を見ればそこには円筒形や俵形といった「形」=【ラレクスヘ】が当たり前ながら備えられている。それは石もパネルも同様だ。さらに言えば、【じにゃん】のプロフィールには「また、人工物も元を辿れば全て自然との代謝によって出来上がっている。」と記載されているのだから、木製パネルもスチール缶も、【ラレクスヘ】を再生したスマホも【じにゃん】の “産物” と言えるだろう。「ポストアーティスト」たちは互いに関連していて、そこに Cream Soda Museum から他の作家を呼び寄せれば、
1. 【ラレクスヘ】の作品(素材:紙、QRコード、スマホなどの読取機器、映像)
1-a. 主に素材や作品自体に関わるもの
【ラネプ】(色彩)
【じにゃん】(自然)
【Niglam】(光)
【Modernus】(近代)
【フシスランコンサ】(時間)
【ルユマイセ】(変化。常に揺れうごき、変容し続けることそのもの)
【プルファ】(動き。運動や行動、そして状態や傾向の移り変わりなどそれ自体)
【ソルサ】(印刷物、印刷技術)
1-b. 主に制作段階に関わるもの
【ネラム】(思考)
【ルダーボン】(虚構)
【ナッレソペー】(遊び)
【ラーイ】(制作行為)
1-c. 主に環境要因として関わるもの
【ぐら】(キュレーション)
【よろすこみ】(経済)
【ピラトゥム】(制度)
【フルーア】(空間)
2.【ラネプ】の作品(素材:木製パネルに水性塗料)
2-a. 主に素材や作品自体に関わるもの
【ラレクスヘ】(形)
【じにゃん】(自然)
【Modernus】(近代)
【フシスランコンサ】(時間)
【スルート】(風)
【プルファ】(動き。運動や行動、そして状態や傾向の移り変わりなどそれ自体)
2-b. 主に制作段階に関わるもの
【ネラム】(思考)
【ルダーボン】(虚構)
【ナッレソペー】(遊び)
【ラーイ】(制作行為)
2-c. 主に環境要因として関わるもの
【ぐら】(キュレーション)
【Niglam】(光)
【よろすこみ】(経済)
【ルユマイセ】(変化。常に揺れうごき、変容し続けることそのもの)
【ピラトゥム】(制度)
【フルーア】(空間)
3.【じにゃん】の作品(素材:石、木製パネル)
3-a. 主に素材や作品自体に関わるもの
【ラレクスヘ】(形)
【ラネプ】(色彩)
【フシスランコンサ】(時間)
3-b. 主に制作段階に関わるもの
【ネラム】(思考)
【ルダーボン】(虚構)
【ナッレソペー】(遊び)
【ラーイ】(制作行為)
3-c. 主に環境要因として関わるもの
【ぐら】(キュレーション)
【Niglam】(光)
【Modernus】(近代)
【よろすこみ】(経済)
【ルユマイセ】(変化。常に揺れうごき、変容し続けることそのもの)
【ピラトゥム】(制度)
【フルーア】(空間)
【プルファ】(動き。運動や行動、そして状態や傾向の移り変わりなどそれ自体)
4.【じゃじゃ】の作品(素材:缶詰)
4-a. 主に素材や作品自体に関わるもの
【ラレクスヘ】(形)
【ラネプ】(色彩)
【じにゃん】(自然)
【カンヅメコノミー】(缶詰を貨幣とした経済圏)
【Modernus】(近代)
【よろすこみ】(経済)
【グリ】(文字)
【ソルサ】(印刷物、印刷技術)
4-b. 主に制作段階に関わるもの
【ネラム】(思考)
【ルダーボン】(虚構)
【ナッレソペー】(遊び)
【ラーイ】(制作行為)
4-c. 主に環境要因として関わるもの
【ぐら】(キュレーション)
【Niglam】(光)
【フシスランコンサ】(時間)
【ルユマイセ】(変化。常に揺れうごき、変容し続けることそのもの)
【フルーア】(空間)
【プルファ】(動き。運動や行動、そして状態や傾向の移り変わりなどそれ自体)
5.【ぐら】(キュレーター)
5-a. 主にキュレーションの段階で関わるもの
【ネラム】(思考)
【ルダーボン】(虚構)
【ナッレソペー】(遊び)
5-b. 主に環境要因として関わるもの
【フシスランコンサ】(時間)
【じにゃん】(自然)
【ルユマイセ】(変化。常に揺れうごき、変容し続けることそのもの)
【グリ】(文字)
【ピラトゥム】(制度)
【フルーア】(空間)
【プルファ】(動き。運動や行動、そして状態や傾向の移り変わりなどそれ自体)
以上のように列挙することができるのではないか[注2]。もちろん、この分類にしても “ルユマイセ(変化。常に揺れうごき、変容し続けることそのもの)” 的なものだが、ここで重要なのは、1つの作品に対して複数の「ポストアーティスト」が、様々な距離感で影響しているということだ。それこそが【ぐら】(キュレーター)の言う「響き合いの関係性」なのだろうし、たとえばスプレー塗料の痕跡としても気配を残す【スルート】(風)は、窓辺から風そのものとして絶え間なく訪れ、そういえば7月にここを訪れたとき[注3]、汗みずくの身体に清涼さを与えてくれた “スルート” は、【マリアナ・コスタ】のモビール作品も揺らしていた。
即興的に切られたとおぼしきカラフルなフェルトが、ミノムシのごとく組み合わされ吊るされていた “彼女” の作品にもまた、【ラレクスヘ】(形)、【ラネプ】(色彩)、【プルファ】(動き)…といった「ポストアーティスト」の気配が思い返してみればあった。それは当然のことで、なぜならこうした「ポストアーティスト」たちは、
「つまりフォアゾクラティカー(引用注:ソクラテス以前の思想家の総称)たちが存在者のすべてを自然(フュシス)と見たということは、彼らにとって存在するものはすべて、それぞれがなんらかの生命原理のようなものを内蔵し、それに従って生成消滅するもの、広い意味での成るものとして思われていた、ということです。(中略)彼らにとって自然(フュシス)とは、昼夜の交替、四季の移りかわり、天体の運動、海の浪のうねり、植物の生長枯衰、動物の生誕や死滅といったすべての自然(フュシス)的運動を支配している原理であり、人間の社会や国家(ポリス)も、そして神々でさえもが同じ原理によって支配されているように思われたのでしょう。」
(木田元『反哲学史』講談社学術文庫, pp.71-72)
「風がほどよく吹く日には木漏れ日が揺れて、強い光の点がその時七十七才になる私に、まるでレーザー付きの銃で照準を合わせているようにまとわりつく。馴れた栗鼠がちょこまかとじゃれるようでもあり、私はすぐにその光の栗鼠にパウルという名前をつける。何匹いてもすべてがパウルで、私はパウルが来た日を日記、というより小さな黒い事務手帳のその日の欄の右上に点を付けて記録する。」
(ラルフ・アウスレンダー『オン・ザ・ビーチ』より。いとうせいこう 編訳『存在しない小説』講談社文庫,pp.256-257)
作品や制作をも含んだ世界全体を構成したり説明したりする概念を “再名付け” したものだからで、その意味で “ファンダメンタル(原理的)アーティスト” や “エレメンタル(根幹的)アーティスト” などと言いかえることもできるだろう。
一方、「ポストアーティスト」にはもうひとつの “潮流” がある。それはたとえば、『4つのポストアーティスト』と題された展示[注4]で紹介された【キャロットランゲージ】【メタメタメタバース】【オルタネームコミューン】【カンヅメコノミー】で、これらは言葉、世界、共同体、経済圏といった既存のシステムの名付け直しというよりは、むしろ遊戯的な模倣であって、
「ふたりの敵同士の王がチェスをしており、同じときに近くの村でそれぞれの軍隊が戦闘し殺し合いをしている。(中略)戦闘の変動が試合の変動をたどっていることが、しだいに明らかになる。日が暮れる頃、一方の王は詰まされてしまったので盤を引っくり返す。ほどなく血まみれになった騎馬兵がやってきて伝える。『陛下の軍勢は敗走中であります。陛下は王国を失われました。』」
(ホルヘ・ルイス・ボルヘス, アドルフォ・ビオイ=カサーレス 著, 柳瀬尚紀 訳「指し手の影Ⅰ」『ボルヘス怪奇譚集』河出文庫, p.73)
世界(の一要素)と対応するチェス盤と駒を作り、動かしてみるようなものと言ったほうが近い。そういった意味で、これらの4作家を勝手に名付け直すならば “ミメティック(模倣的)アーティスト” だろうか。
たとえば、「戸籍上の名義ではない名義による人物たちによって生まれたコミューン」[注5]である【オルタネームコミューン】の作品として callbox に展示されていたのは、フィクションに登場する人物名のシールが貼り散らされたパネルだったのだが、そこにはズレや乖離のようなものが内包されている。というのは、目の前の作品が、【オルタネームコミューン】の概念を十全に表す唯一の方法論ではない、まだ【オルタネームコミューン】は表現し尽くされていないことが見て取れるからだ。そもそも、アーティストのコンセプトと作品の間にはズレがあるはずだが[注6]、“ミメティックアーティスト” は、そうした関係性をも模倣しているのではないか。それによって、鑑賞者が豊かな差異に気づきやすくなるように、“ファンダメンタル/エレメンタルアーティスト” もまた、自明すぎて存在を忘れてしまう要素に対して再名付けすることで、その存在を際立たせている。そのときにも、やはりズレというものは機能しているのだが、作品(例:パネルに名前シール)⇔作家=コンセプト(オルタネームコミューン)⇔現実世界(共同体)との間にそれぞれズレを生じさせる “ミメティックアーティスト” とは、そのズレの生じ方が違っているのではないか。
試しに【ラネプ】(色彩)のことを考えてみれば、前述のように水性塗料がスプレーで塗布されたパネルは、【ラネプ】の定義「色彩。アーティスト。人間にとっては可視光線の波長の中に存在している」を十全に満たしており、同時に【ラレクスヘ】(形)の映像も、【じゃじゃ】(食料)の缶詰も、私がたまたま履いていた青と緑の靴下もまた【ラネプ】である。観世音菩薩はあらゆる衆生を救うため、33もの姿に変じて現れるようだが[注7]、【ラネプ】もまた、作品および作品外のあらゆるものとして顕現していて、そう考えると、“ファンダメンタル/エレメンタルアーティスト” は “ユビキタス(偏在的)アーティスト” でもあるのだろう。そして、目の前にあまねく存在する色を【ラネプ】として眺めなおすとき、そこには日常の知覚との乖離が少しだが確かに生じて、
「潜在する『Aでない』の有する力こそが、『Aでないというよりはむしろ』を表現し、『A』のリアリティを立ち上げているのです。」
(郡司ペギオ幸夫『やってくる』医学書院, p.82)
郡司氏は目の前の「ねこ」、パジャマのような服を人間のように着せられ、年老いて力ない体毛が乾燥した苔みたいなその存在が「猫」か「犬」か判断する例を挙げている[注7]。そのとき「苔かもしれない、人かもしれない」という可能性は、「猫か犬」という二択の文脈から実は排除されきっていない。その潜在する「猫でない」可能性こそが、「猫でないというよりはむしろ猫である」という不安定な形で、眼前の “猫” にリアリティを与えているとするが、「ポストアーティスト」と現実世界の間にも同様のことが起きているのではないか。
たとえば経済圏を缶詰によって模した【オルタネームコミューン】において、「経済圏でないというよりはむしろ経済圏である」というリアリティが発生しているのならば、【ラネプ】は、「色でないというよりはむしろ色である」という緊張関係を、色を有するあらゆる事物と取り結ぶ。それははすぐさま、目の前の対象が【ラネプ】だけでなく、【ラレクスヘ】(形)、【じにゃん】(自然)、【プルファ】(動き)…といった別の要素とも同様の関係を有する、そうした網目の中に形作られていることの気づきへとスライドしていって、
「アンチ・フィリードル(引用注:分析法教授。綜合法教授フィリードル博士のライバル)の分析的な歯牙にかけられ分解の緒をつけられた(引用注:フィリードル)夫人は、しだいしだいに内部的連関を失いつつあり、ときたま思い出したかの如く鈍い呻きをあげるにとどまったのである。『わたし ―― 足。わたし ―― 耳。足。わたしの耳。指。頭。足。』」
(ヴィトルド・ゴンブローヴィッチ 著, 米川和夫 訳『フェルディドゥルケ』平凡社ライブラリー, p.160)
【オルタネームコミューン】や【カンヅメコノミー】などの “ミメティックアーティスト” を「世界のミニチュア」だとしたら、【ラネプ】(色彩)をはじめとする “ファンダメンタル/エレメンタル/ユビキタス” アーティストたちは、一見なめらかに統合された世界へ次々打たれる楔のようなものなのかもしれない。〈了〉
[注1]【ラネプ】については、https://creamsodamuseum.org/%e3%83%a9%e3%83%8d%e3%83%97/ を参照のこと。
[注2]Cream Soda Museum の Artist ページを参照のこと(https://creamsodamuseum.org/%e3%82%a2%e3%83%bc%e3%83%86%e3%82%a3%e3%82%b9%e3%83%88/ )。
本文と同じくアーティスト名は【】で示し、()内には各アーティストの定義を簡単に記載した。並び順については、Artists ページにおける登場順に準拠したが、本展参加作家についてはその限りではない。また、ここでは「環境要因」
という言葉を「素材および作品と、制作者双方に間接的な影響を及ぼす変数」程度の意味で用いている。
[注3]「あゆさゆみ しなそのなこす すさのよせ」_2025年7月12〜21日_キュレーション/楡木真紀、展示作家/さとうこけこ、Y・N、プイマ=セカ、大塚恵美、マリアナ・コスタ_O CHA NO MA_福島県須賀川市中町17-8_http://curryricegallery.jp/%e3%81%82%e3%82%86%e3%81%95%e3%82%86%e3%81%bf%e3%80%80%e3%81%97%e3%81%aa%e3%81%9d%e3%81%ae%e3%81%aa%e3%81%93%e3%81%99%e3%80%80%e3%81%99%e3%81%95%e3%81%ae%e3%82%88%e3%81%9b/(展覧会詳細ページ)
[注4]「4つのポストアーティスト」_キュレーション/坂本嘉明、展示作家/中村悠一郎、作品提供(カンヅメコノミー)/佐塚真啓_2025年8月2~7日(キャロットランゲージ)、9~14日(メタメタメタバース)、16~21日(オルタネームコミューン)、23~28日(カンヅメコノミー)_call box_東京都新宿区百人町1-24-8-107_http://call-box.jp/uncategorized/1466/(展覧会詳細ページ)
なお、筆者による以下のレビューも合わせて参照のこと。
『手紙の入っていない封筒』(キャロットランゲージ)http://call-box.jp/dial107/1505/
『で、あなたは、いったい何を探しもとめているのか?』(メタメタメタバース)http://call-box.jp/dial107/1512/
『彼らはついに王の姿を見た。すなわち、彼らこそシムルグであり、シムルグとは彼らの一羽一羽、そして全員であることに気づく。』(オルタネームコミューン)http://call-box.jp/dial107/1538/
『“幼子” に注ぐ4つのまなざし』(カンヅメコノミー)http://call-box.jp/dial107/1551/
[注5]Cream Soda Museum の【オルタネームコミューン】ページより。https://creamsodamuseum.org/%e3%82%aa%e3%83%ab%e3%82%bf%e3%83%8d%e3%83%bc%e3%83%a0%e3%82%b3%e3%83%9f%e3%83%a5%e3%83%bc%e3%83%b3/
[注6]作家のコンセプトと作品との関係については、「蜘蛛と箒企画『日々美術』 #19 模倣について(前編)」および「#20 同(後編)」における美術作家・渡辺泰子氏の発言から着想を得ている。https://open.spotify.com/show/05KvgKHZnOVEBebfZ0S07f
[注7]『コトバンク』「三十三身」の頁を参照のこと。https://kotobank.jp/word/%E4%B8%89%E5%8D%81%E4%B8%89%E8%BA%AB-513682#w-1982562
[注8]「ねこ」の例については、『やってくる』pp.78-83 による。なお、ひらがな表記の「ねこ」は「現実に存在する目の前のネコ」を、漢字の「猫」は「抽象的な概念としてのネコ」を指している(同書, p.78)。
備考)引用したURLの最終閲覧日はすべて2025年10月24日である。
ー

